余裕のない日本人
日本人の多くが余裕をなくして、卑屈かつ他者へ攻撃的になっている。
嫌がらせと嫌味しか取り交わしていないような。
粗探しと根拠のない浅い批判と監視のし合い。
職場も学校もインターネット上も。
余裕とは言わば人間(自分・他者)や物、環境を配慮をすることであり、
配慮とは愛情を向けることである。
子どもたちは、大人のように仕事が忙しいわけではないけど、学力競争と蹴落とし合いに若く燃ゆる命を削ってるし、周りの大人が行動も思考も忙しなくカリカリしていると、同じくそういう風に育つ。
社会に希望もなければ鬱憤も溜まる。
これは広く社会規模で連鎖的悪循環を起こす。
若者の鬱憤や抑圧は、内に向くか外に向くかしかない。
内に向くと自殺したくなるし、
外に向くと他者への加害になる。これはいじめや犯罪の問題になる。
こういった二面性はあれど、基本的な性質も根本的な原因も変わらない。
いじめる側を擁護するわけではないが、どっちにしろ完全に個人だけの責任ではないと思う。もちろん精神疾患や自殺の問題も。
例えばそういった人に対し、加害者の心だけが歪んでいた、狂った個体だった、突然産まれた悪魔だった、とういのはあり得ないと思う。
やはりそうさせてしまうような背景があるのだろう。
(そんなことも自覚せず当人はゲームのように扱ってるから実際問題、悪質だけど。)
いつも言うようだけど、家庭や社会的背景があるのだし、誰しも周りの人間に影響されて心も育つのだ。
人格そのものは誰のものも責めるもんじゃないと思う。
私だって鬱状態に溺れて苦しいときは、誰かか自分かを殺したいなどと衝動的に思ったものだし、私とこのような人々の一体何が違うのか。
話が飛んだ。
大人も子どもも人間らしく(怒って他者と衝突したり、自分や他人の心にしっかり向き合ったり、調子を崩して休んだり、それを周囲の人間と許し合いながら)生きてないから、相手のことも生身の人間だと思えてない。
そしてそれが当然であり疑う余地もないのだ、自分もこの世の中も親も正しいのだ、と思い込み生きている。そこが問題だ。
なぜこんなこと考え始めたのか、
きっかけはこのツイート。
三年前大学でいじめを乗り越えた事を講義で話したら、同じ講義を受けた人に「同情されたいのですか?」とコメントされた。乗り越えた事から「同情」という発想になるのが理解出来ず、ショックで仕方なかった。現在、コメントしたその人は「教師になりたい」と教育実習を受けている。そんなものなのだ。
— 春日井さん (@kasugai0152) 7月 4, 2012
配慮に欠けるどころかなにも考えていない輩がいるもんだなあと思ったのです。想像力がなさすぎるなぁ…。教師になるのが人格者とは限らない、むしろそんなの無いのが当然なんだろうな最近じゃ。
“他人への理解”と“自分自身への認識”は同義。
本当にそう思う。
解決策を具体的にいうと、多忙と危険がある程度無くなれば穏やかになると思うんだけどな。
そんな一筋縄には行かないが。
「休む」「ゆっくりする」「なにもしない」ことが悪のように取り扱われている昨今だけど、本当に大事だと思う、休むこと。
「する」の反対は、「しないで いる」こと。
「する」をできない人間を責めるのは「いる」ことを否定することだ。
あふれんばかりのToDoリストを追い続けることは、「いる」自分を殺すことになる。
大袈裟じゃなく、実は本当に危ない。
人間は本当はそんなにたくさん動けないようにできている。
(このへんはこの本に詳しく書いてあります、当ブログ紹介記事 :
『スローライフのために「しないこと」』著者:辻信一 - 脳から逃げない #8)